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寄稿

中国,都市住民の生活は今

中国,都市住民の生活は今

(財)日中経済協会上海事務所  所長 﨑岡 洋右

マイカーとマイホームはステータスシンボルと受け取られた時期が日本にもあった。
最近中国でもマイカー,マイホームに関心が高まっている。とは言っても中国全土いたる所とは言いがたく,あくまでも北京,上海を中心とした所得の高い地域に限られると思うのだが近頃新聞紙上で時々この種の記事を見られる。ここでは中国人の所得についてのいくつかの社会現象を参考までに見てみよう。

マイカーとマイホームの関係
ある調査によると,これはあくまでもある地域を対象にした調査なので,全国的なものかどうか解りかねるが,マイホームをすでに購入した人々がマイカーの購入についてどう考えているかとのアンケート調査の結果を見ると,すでに自家用車を持っている割合は17.7%,今は持っていないが今年中に買うと答えたものは10%,今は持っていないが将来買うとの答は 56.8%と最も高かった。また車は買わないという答えが15.5%であった。マイホームを買えるような人々はマイカーに対する関心も高いとの結果であった。          しかしながら中国ではまだマイホームを買える人口は極めて少ない。中国では一戸建住宅よりマンション形式の住宅が賃貸,分譲を含めて多い。分譲価格は地域によっては開きがあるが,上海では新築マンションは3LDK130m2当りだと17万元~40万元(700万円),最近は値上りしている。中国でも住宅購入の場合はローンが普通であるが,しかし新築のマンションを購入できる人々はごくわずかである。まだまだ住宅は高嶺の花なのだ。
自動車は一番安い車になると新車でも4万元(60万円)で買えるものが出てきている。上海ではサンタナMの新車は14~16万元ぐらいで買える。都市の住民はそれでも車より家を選ぶほうが多いと聞いている。しかし若者は家より車に関心が集まるという現象はどこの国も一緒である。

可処分所得は昇びたが収入格差も大きい
最近の都市部における収支状況を今年の第1四半期でみると,1ヶ月1人の総収入が平均で744元(約1万円強),このうち可処分所得は708元に達し,前年同期より16.1%も増加している。この744元は給与所得ではない。給与所得は527元で残りの217元に相当する収入は給与以外の収入である。中国人は給与所得では満足せず,常に給与以外の収入の道を求めている。特に技術や知的才能を持っている人間ほどその傾向が強い。従って意外と個人所得は実際と異なり高い人間もいる。都市部ではこのような傾向が多く見られる。しかし同じ都市部でも所得の高い層と低い層の格差は約8倍あり,ちょうど都市部と内陸部との収入格差に類似している。所得格差の傾向は今後も拡大していくものと思う。消費支出を見ると医療保険,交通,通信,衣服,娯楽,教育,文化,食品への支出増加がみられ都市部住民の支出は所得の高い層に支えられて,文化,娯楽,食品といった都市型現象の拡大が連がっている。上海等はその代表といえよう。衣,食,娯楽に関する消費は若者向けが目立ち始めていることはアジアのどこの都市にも共通したものとなっている。北京,上海でスターバックス(コーヒー店)が店舗数を増やしており,ファーストフード店が増加していることは所得の向上と,食文化までも変えていく時代の変化が中国といえども逆らえない現象なのかもしれない。

最低生活保障額,北京290元,上海280元
最近全国的に都市部では最低生活保障金が引き上げられている。都市部では物価水準が上昇し,生活必需品も高くなっており,住民の生活費も苦しくなってきている。このような状況はリストラされた人々には生活環境の悪化につながっている。そこで政府は各都市部での最低生活の保障金を上げる政策をとっている。これを見ると,1ヶ月の最低生活保障金の最高は深セン(広東省)の344元,アモイ(福建省)315元であり,最低は南昌(江西省)の143元となっている。北京は290元で,上海の場合は280元であるが,可処分所得は北京年間10,350元,上海は11,718元であるから,南昌の可処分所得が5,104元と比較すると上海人の方が恵まれていることがわかる。しかし,そう単純に言えるかどうか上海より江西省の南昌のほうが物価は安いと思われるから,生活内容では上海人の方が苦しいこともあり得えるだろう。それにしても今,北京でも上海でも一人の人間が1ヶ月280元~290元で生活できるものだろうか。上海ではとても生活はできないと言う。

コンビニエンスストアーは大人気
上海はコンビニの数が最も多く,コンビニが初めて登場したのは1993年であったが,上海人の所得向上と,とれに伴う購買力の増加。そして手軽く必需品が手に入って安く便利なことから爆発的な人気が出たからである。ローソンを始め,聯華,好徳,可的等大手のコンビニ店が1999年以降は急速に増えてきた。現在2~3日に1店の割合で店舗数が増加しているといわれているが,その数は1800店を超えたといわれている。上海は人口の割合から見て,コンビニの数は3000店が適当だと言われているが,この分でいくと3000店に達するのは真近かであろう。そこで北京はコンビニ市場としてまだ未開の段階(現在100店)と言われており,コンビニの商圏人口は3000~4000人とするある試算にもとずけば,北京は2000店まで増やせるという。
上海がコンビニ数では限界に近づきつつある状況を考えて,さらなる展開を北京を新しい戦場として各コンビニチェーンが選んだ。今後,熾烈な戦いが行われるだろう。

(財)日中経済協会上海事務所連絡先:
中華人民共和国上海市延安西路2201号 上海国際貿易中心大厦2001号
電話:86-21-62701647 FAX:86-21-62752211
(筆者は1994年7月~1997年7月までジェトロ鹿児島貿易情報センター所長として勤務)

海外生活雑感

海外生活雑感

香港在住 サン・サン・トロア オーナーシェフ  宮迫 征弘

ごはんたべた? 

「ごはんたべた?」これは毎朝スタッフと交わす最初の言葉です。そしてこれが”あいさつ”なのです。ここ香港では毎朝よく聞かれる言葉です。近頃になってこれは親しい人と交わすあいさつなのだということが分かりました。
鹿児島の皆様に向けて,このあいさつで私の文章をはじめたいと思います。

サン サン トロア

私は2000年の1月に香港でレストランをオープンさせました。店の名前は”サン サン トロワ”といい,これは数字の3,3,3を中国語(広東語),日本語,フランス語で発音したもので,ひとつの枠にとらわれないといった意味での”なんでも屋”を目指して名付けました。現在サン サン トロワを営業して2年と6ケ月になります。
香港経済も明日が見えにくい情況の中,なぜかレストランがこの頃たくさん新たにオープンし,オシャレな店が多くなりました。私の店は50席足らずですが,近頃オープンする店の中には客席が150席~250席ある大きな店もあり,50席でも連日お客様でいっぱいにするのは難しいと思うのに,ほとんどの店が日本人の料理長1人と香港人数名で営業している状態で,皆,現地スタッフとのチームワークと営業努力を目指してがんばっているな,と痛感しています。
日本からの食材(肉,野菜,鮮魚)は週に4回取り寄せる事ができます。月曜日に九州の福岡から,後の3回は東京築地市場から入ります。今の所,鹿児島からコンスタントにまとめて食材を取り寄せることはありませんが,私の店では「黒ブタ」を 扱っています。鹿児島牛も入荷していますが,今は香港政府の方針でなかなか入手することができません。鹿児島の新鮮な野菜などが使えるとメニューが楽しくなるのですが!!

市場の楽しみ

香港では市場のことを”ガイシ”(街市)と呼びます。市場にある店は,野菜,鮮魚,冷凍肉,豆腐,漬物,漢方薬,フルーツ,川魚などそれぞれが専門店として営業しています。その種類の多さには日本から来る友人の料理人もビックリするほどです。
肉類だと牛肉は中国からの輸入肉で一頭の牛を店内で切り分けて,すべての部分を売っています。サーロイン,ヒレ肉,ブリスケ,その横には骨やしっぽが売られているといった具合です。豚肉も同じく一頭のまま毎朝店先につき,それを切り分けて売っています。大きな中華包丁1本ですべてを切りわけます。
鶏肉の場合は注文に応じて生きた鶏をさばいています。中でも胡麻鶏(チーマーカイ)という種類は人気があります。しかしここ数年香港では鶏のウイルスの問題があるので,私の店ではフランスのブレス産の鶏を輸入しています。
香港にはそのような市場がたくさんあり,行くとおもしろい物に出会うことができます。先日は中国の四川省,山東省の梅が市場の中の1件の店だけにありました。青梅を塩漬けと梅酒にしました。他にもキビナゴなどの珍しい物もありました。
市場ではすべて交渉次第でディスカウントできますが,香港の言葉(広東語)だけしか通じないので最初は無理のようです。 

“明るい人”は言葉を覚えるのが早い!?
香港の人達は声が大きく話し好きです。電車の中でもバスの中でもとにかく話し声が聞こえてきます。初めの頃は何を話しているのかわからないので,会話の内容が分かりませんが,だんだんとわかってくると,かなりブラックジョークが混ざっています。
話の好きな人はどんどん広東語が上達していきます。同じような発音でも意味が違うので会話をしてみないと先生に習った発音では通じない事が多く,その時は早口で言うようにしています。早口で言うと以外と通じます。はずかしがらずに明るく笑顔で話すと友達も増えてきます。
日本語で話すときと現地の言葉で話すときは性格まで変わってしまうような気がします。言葉は文化だといいますが,性格まで変えるのかもしれません。私は英語,マレーシア語,北京語,広東語といった色々な言葉の中で18年間生活してきました。今は週に一度,2時間ずつフランス語を習っています。四十の手習いと言いますが,四十の言葉習いです。先生は60歳のフランス人女性です。年に4回あるグルメパーティでは,参加者の方々は初め英語で話していますが,話が弾むころにはフランス語に変わっていきます。日常は広東語の生活をしている人達も出身地は広州,福建省,上海と様々です。同じ出身地の者同士が,親しみを込めて出身地の言葉で話すときには特に楽しそうに見えます。私にとっては鹿児島の言葉で話すときです。海外で仕事をする時,やはり言葉が1番難しい問題ですが,香港や中国の北京の場合には漢字を書くとなんとかなるようです。ただ、香港の漢字は日本とかなり近いのですが、北京で使われる新しい字体の漢字は私にはわかりません。しかし、北京の友人には日本の漢字がよくわかるようです。

シンガポールの思い出

教育の国シンガポール。シンガポールの人達は日本の車が大好きです。シンガポールの有名校”ラッフルズスクール”では、生徒のほとんどがメガネを着用しています。そして皆よく勉強します。
6年間のシャングリラホテルでの仕事の中で印象に残っているのは,シンガポールの前首相やマレーシアの首相,アラブの王様の食事を用意したときの事です。その場合,特別室の調理場で料理します。ボディーチェックを入り口で受け,20名ほどのボディーガードやホテルのマネージャー数人が見守る中,料理をしましたが,周りの人達のピリピリとしたムードが伝わってきました。食後首相が調理場までおいでになり,日本語で「ごちそうさまでした」という言葉を頂き,少しの会話をすることもありました。現在香港に見えるときも数回料理を作らせて頂いております。ボディーチェックの時にはいつも手に40センチメートル位のナイフを3本ほど持っているのですが,体は調べられますがナイフは料理人と言うことで許してもらえるようです。

マレーシアの思い出

私は以前はホテルのレストランでも仕事をしていました。マレーシアのクアラルンプール(K.L)での出来事ですが,レストランのオープン当日に調理場にスタッフがいないと思ったら,全員イスラム教の人達なので”お祈り”の時間だったらしく,階段の上の方でお祈りをしていたということがありました。
友人の家に行くとリビング中央に丸い”ゴザ”が敷かれ,家族全員であぐらをかいて食事をしていました。右手の指を使って食べる料理はおいしいものでした。今は日ごろはスプーンとフォークで食べるのが主流だそうですが,特別の日にはやはり指で食べるということです。
マレーシアの毎日の食事はシンプルに鶏のカレーや羊のカレー,そして野菜とご飯,酢漬けの胡瓜,そしてチリ(生の唐辛子)ですが,祝い事の時には品数が多く,カレー風味の煮込み料理や鶏,魚,羊のスパイスのきいた料理,豆腐の揚げた物にココナツミルク風味の椰子,マレーシア風のフライライス,それにデザートも種類が多く,バナナの天ぷらやゼリーのケーキ,そしてフルーツにドリアンと高級な食材が並んでいます。それらをゆっくりとあぐらを組んでいただきます。子供達はあぐらの上に乗ってきます。マレーシアの人々は子供を大切にします。また人情が深く,帰るときなどは食事のお礼と健康を祈って家のおばあちゃんに必ず挨拶して帰ります。彼らを見ているとどことなく鹿児島を思い出しました。

北京の思い出

北京の5月は楊(柳の一種。昔は並木に使われたとか)の花が雪のようです。街には色々な屋台が並び,白衣を着けて白い帽子をかぶった料理人のもとに,夕方ともなるとたくさんのお客が集まります。北京の女の子だけがするそうですが,二人の若い娘さんが1つのアイスクリームを歩きながらなめている光景にはほのぼのとしたものがありました。

香港人の気質

香港人は家族愛が強いと思われます。若い男性が”おじいちゃん””おばあちゃん”の手を引いて食事に行きます。私の店の従業員からも「日曜日は母のバースデイだから休みたい」というリクエストがきます。ほとんどの家では子供達が毎月給与の半分をお母さんに渡しますが結婚後は少しでもいいそうです。
今年に入り多くのホテルでリストラがありました。香港ではサービス業,特にレストランで仕事をする人が多く,数人の知人が仕事先をさがしていますが,なかなか見つかりません。香港ではサービスの水準の低さが目立ちますが,経済的に自立するにはあまり”ニコニコ”はできなかったのだろうと考えています。

最後に

鹿児島の空気,水,野菜,肉はとにかくおいしい。そして香港の人達が今,鹿児島に行くようになっている事はお気付きですか?香港の人は温泉が好きです。しかし大きい風呂に知らない人と一緒に入るのは嫌がります。やはりプライベートの温泉が好まれます。
香港で生活する上で不便な事として,水の問題があります。香港の生水はそのまま飲めない為,水は買って飲んでいます。香港においでの時は生水に気を付けてください。

<レストラン サン サン トロア>
◇所 在 地:4/F.,CITIC Tower, 1 Tim Mei Avenue, Central, Hong Kong
TEL 852-2104-5333 FAX 852-2104-5788
◇営業時間:ランチタイム 12:00~ 2:30PM
ハッピーアワー 5:00~ 7:00PM
ディナータイム 6:30~10:30PM
※ハッピーアワーは1杯分の料金で同じ飲み物がもう1杯ついてきます
◇サンサントロワ のオリジナル料理
・鮪のタルタルキャビアぞえ トマトと醤油のソース
・鯛の白トリフカルパッチョ スペイン産のオリーブオイル風味
・ピリ辛そうめん 北京のそうめんを使ったペペロッチーニ風

筆者紹介:鹿児島県末吉町出身。娘二人,息子一人,妻の5人家族。1984年に日本を離れ,途中1年間東京に戻るが現在香港で海外生活進行中。

中小産業機械メーカーの上海進出

中小産業機械メーカーの上海進出

上海四国食品包装機械有限公司 総経理  中摩 正澄

会社概要

<日本:四国化工機株式会社>
弊社の出資会社の一つである四国化工機株式会社は、徳島県に本社工場を置き、一般的には名前の余り知られていない液体食品充填機メーカーであるが、その機械を使用して造られた商品では、大変に皆様方にお世話になっている。
スーパーの食品売り場に必ず置いてある紙パック入りの牛乳、ジュース、また、プラスチック或いは紙カップ入りのヨーグルト、プリン、ゼリー等の充填機械、更に、お父さん方には欠かせないお酒、焼酎等の充填機も製作・販売している。
特に、牛乳・ジュース用紙パック充填機は、乳製品の発祥元とも言える欧州、北米への輸出を販売代理店を通じて行っており、機械製造量の30%強を占めている。
また、食品機械をユーザーの立場で完成させていくという目的で設立した豆腐製造事業が昨今軌道に乗り、徳島の鳴門工場、阿南工場、静岡の御殿場工場、淡路工場を有し、「さとの雪」ブランドで関東以西の市場へ、日産40数万個を送り出している。

<上海四国食品包装機械有限公司>
食品充填機の市場規模は余り大きなものでない中で、活路を先進国での販売に絞って、それが安定してきた矢先、1992年当時円高が極端に進み、1$が90円を切ったために、円建て販売を行っていたこともあり、機械価格が高くなり過ぎて売れないということが危惧された。
そこで、東欧、東南アジア、アメリカ等からの部品調達を検討して見たが、実際に手始めて見ると、品質・納期の問題が種々発生する。
それでは、自前で海外での部品製作を行い、機械コストを下げようと言うのが海外進出の発端であり、従来、機械の性能・機能は高級であるが、高すぎて販売が停滞していた中国・東南アジア、南アメリカ等への市場拡大も睨んで、工場建設を進めた。
工場建設地については、中国を中心に東南アジアに絞って、聞き取りを中心に調査を進めてきたが、今後の発展性、日本とのアクセス、技術者採用、協力工場群の育成の容易さ、その他を勘案して、最終的に上海の西南にある松江に決定した。 

工場全景
工場全景

その後の経緯を略述する。

1995年11月 営業許可を受領。
1996年4月1日 レンタル工場で営業開始。併せて工場建設を進める。
弊社のような受注生産形態の企業の場合、技術者の育成が出来ないと操業が不可能との判断でレンタル工場を借用し、育成スピードを速めるべく途中で方針変更した。
レンタル工場での主体業務は、日本四国化工機からの部品受注・納品で、その間選抜技術者の加工技術教育、組立教育、設計教育等を日本へ派遣して実施した。
1998年 5月 新工場への移転。
レンタル工場からの設備移転と新規設備設備を導入し、いよいよ初期計画に沿った操業体制となる。
因みに、日本への部品供給、将来の機械の海外輸出も見据えて、NC工作機械は、すべて日本製を輸入した。
2年間の習熟期間を経て、部品加工に関しては、日本の品質受け入れ基準を満たすことが出来る様になったとの判断で、日本より技術者も招聘し、機械組立を開始する。
機械工場
機械工場
1998年10月 創業式典を行う。
中国市場における知名度のアップを狙い、第一陣の組立機械の運転展示を行い、最新鋭工作機械による部品製作を客先に認知して貰うことを意図して、大々的に創業式典を行う。
併せて、中国国内営業をスタートさせる。
更に、中国国内での要求に合う機械を製作するために、日本の設計図の大幅な設計変更が必要として、設計要員の充実と中国市場向け充填機の設計を開始させる。

組立工場
組立工場
 2002年現在   中国市場だけを考慮すれば、特に紙パック入りの牛乳に関しては、紙容器(カートンブランクスという)メーカーがカートンを売るために、アメリカ、ヨーロッパからの輸入機で市場を作って来ており、2年ほど進出が遅れた感はあるが、弊社の海外での実績を踏まえ、知名度が上がって来るに従い、現地生産でのアフター面での優位さも有って、この3年の間に、50数台の機械を納入できた。
従来、7年ほど前は、中国の牛乳生産は、日本で北海道が発祥の地である様に、北の黒龍江省で中国全生産量の1/3が生産されており、一般的にはそれが粉乳に加工され、消費地の近くで水枕状のポリパックに詰められて、消費者は、これを買って、一度鍋にあけ、沸かしてから飲むという風になっていた。いわゆる、還元乳である。
それが、都市部におけるチルド(冷蔵)流通の発展と共に、生乳を紙パックに充填したものは、冷蔵庫に入れておけばそのまま飲める新鮮牛乳と認識され、ここ数年毎年25%程度の伸びを示している。
因みに、中国の人の一人当たり牛乳消費量は、日本人の1/5、欧米人の1/10である。
中国政府の奨励もあり、牛乳の生産地も、沿海部を中心に南下しつつあり、都市消費地を控えた農村部に急激に増えてきており、まだまだ我々のお役に立てる要素は大きい。
機械納入実績を示す地図(赤点が納入場所;日本へも2台納入)
機械納入実績を示す地図(赤点が納入場所;日本へも2台納入)

自己紹介
以上紹介した様に、会社そのものは、特に、鹿児島と密接な関係にあるとは言えない。
強いて挙げれば、鹿児島協同乳業、川内酪農さん、薩摩酒造、本坊酒造さんにお世話になっている。
私個人的に、重富の田舎で生まれ(実際は北朝鮮の平壌)育ち、昭和34年玉竜高校卒業、昭和38年鹿大工学部機械工学科卒業と同時に大阪の中小企業に入社、そこが閉鎖になった関係で、ヤクルトがガラス瓶からプラスチックワンウェイ容器に切り替えするとのことで、この充填ラインを設計するために四国化工機に入社し、時たま鹿児島と接点はあるものの、ほとんど鹿児島弁も話せなくなっていたが、上海に駐在し、ひょんなことで鹿児島県人会に参画させてもらい、忘れていたものを思い出しつつあるところである。

上海に来て見て
私どもの事業形態は、非常に煩雑で、中国に進出することの難しい形態である。加工製作される部品は、全品形状、材質が違うために、加工の仕方をマニュアル化し、その通りにやって貰えばできるという業種とは違う。そこには、東京、大阪の町工場に見られるような職人技に通じる技術者の個人技量の養成が必要になる。
このような事情を踏まえながら、中国に工場設立するに当たってのアドバイスとして私が言えることは、まず、中国は色々な面で発展整備中であり、日本の様に色々なものが揃っており、整備されている国ではなく、進出される際には日本では考えられないようなことを当地の事情に合わせて解決していかなければならないという認識を持って進出される必要があるということであろう。
私どもが中国進出するに当たっても、中国の人たちは、日本人と色々な面で考え方が違うと聞いて来た。確かに違う面が多い。然し、こちらへ来て見ると、違うのが当たり前だと思う。文化、歴史が違う。特に、ほとんど単一民族で侵略された経験の無いと言ってよい日本人の方が、世界の中では異色の考え方をする民族であると考えるようになった。違いがあって当然、これを置かれた立場で解決して行くしかないとの認識も必要だ。
更に、誰もがおっしゃることかも知れないが、成功させるためには、進出の目的、方向或いは方針等を如何に確かなものとして進出するかに掛かっているのではないだろうか。
また、進出した後のことであるが、よく、中国事情が分からずに、日本本社が間違った指示を出すことがあるようだ。中国進出の方針の確立は、中国事情を詳細に掌握することから始まる。
また、日本に居ると、決まった部署で、決まった仕事をしていれば済むのだが、当地で会社を立ち上げるとなると、何から何までやらなくてはならない。日本で言う小使いの仕事までやらねばならない。
一方、当地へ参り感謝している点は、日本だと、生産関連の仕事が長かった関係で、社外でお付き合いする人は、生産に関連する人に限られていたのが、当地では日本人だと日本での職位、年齢など関係無く、ちょっとしたことでお付き合いが始まる。更に、色々な仕事をこなして行かなくてはならないだけに、色々な業種の方々とお付き合いせざるを得なくなる。
更には、中国の方々とのお付き合いがなければ、如何ともし難い。ここで、上海駐在の先達が残された、上海日本人会で言われている「中国の人とお付き合いを深めるには、3『ま』でなければいけない。」即ち、「まじめに、まめで、がまん強く」しなければいけないというのがある。また、言わずもがなとは思うが、中国に進出する限り、中国のお役にも立つことを忘れてはなるまい。いずれにしても、日本で生活していた時と考え方も色々な面で変わってきた。
私が中国に係わるようになって9年目、上海に駐在するようになって6年目に入るが、その間の中国、特に上海の発展には目を見張らせられるものがある。色々な面で、まだ、日本に比べると20年ほど遅れている部分もあるが、その発展振りからして、日本との差が急激に縮まって行くことは間違いない。特に、国、政府関連の行う事業のスピードは、日本の何倍も速い。
日本では、中国が世界の工場化し、いずれ日本の仕事が空洞化するということが言われて久しいが、弊社内では、私はこれを乗り切るために、本社と上海工場の技術の融合を図るべしと説いている。それにより、日本の仕事を作りつつ、世界のマーケットで競合に負けないものを生み出して行く。この様な方法しか、今後日本が立ち行くすべは無いのではないか。
企業においては、この様なことを見出しつつ、国体の在り方も変えて行かないと、世界の中で日本が立ち行かなくなる。まさに変革すべき時期である。それも中国の人たちの向上心、中国の変革の状況をつぶさに掌握して、日本の在り方を考える必要があると思う。
今後、もっともっと中国のことを知るべしである。上海進出企業で、弊社が特殊な企業形態である為か、末吉町の商工会からもお見えになったし、色々な所から工場見学に見える。出来る限り、これらにも応えて、何らかの手助けになればと思っている。
特に、鹿児島から見えるとなると、何となく気持ちが湧き立つ。ご希望があれば、本協会を通じて、申し出て頂いたらと思う。

<筆者連絡先>上海四国食品包装機械有限公司
上海・松江洞涇路18号 〒201600
TEL:86-21-57741740 FAX:86-21-57741739

私の北京・・・主婦の実感レポート

私の北京・・・主婦の実感レポート

中国北京市 山下るみ子

中国北京市 山下るみ子鹿児島の皆様、こんにちは。
私は鹿児島市出身で、北京歴4年ののんきな主婦です。鹿児島には大学卒業までの22年間お世話になりました。大学卒業後は就職や結婚・夫の転勤などで東京や福岡、さらには中国まで足を延ばしながら各地を転々とし、見聞を広めています(?)。夫も同じ鹿児島県人ということもあり、鹿児島へも毎年一度くらいは帰ります。

今年も3月下旬に一週間ほど鹿児島に里帰りしました。多感な青春時代を鹿児島で過ごした私の脳裏には、桜島と錦江湾の景色が焼き付いていて、桜島を見ると、ああ今自分は鹿児島にいる、という実感に包まれます。北京でもない。東京でもない。湿気を含んだちょっと重めのこの空気も鹿児島の証。懐かしいふるさと。

鹿児島から北京へは、東京経由・大阪経由・福岡経由・ソウル経由などいくつか考えられますが、今回私は大阪・関空経由を利用しました。鹿児島から関空まで1時間、関空から北京へ3時間、計4時間のフライトであっという間に北京到着です。本当に中国は近いのです!

中国と私の関係は、1982年の北京観光に始まり、1986年~1990年までの上海駐在、そして1998年から現在までの北京駐在と長いおつきあいになっています。中国は1995年あたりを境に、急激な経済発展を遂げていますので、それ以前とそれ以後の暮らしは、まるで二つの国にいるかのような錯覚さえ覚えます。

現在の北京での暮らしですか?それはもう、極めて快適です!(老後もここで暮らしても良いと思うくらい?)(そりゃないだろう、と夫?)
そして今の北京を一言で表わしますと?「なんでもあり!」そう、新も旧も、右も左も、裏も表も、真も偽も。。。とにかくなんでもあり!
それらが混ざり合って、混沌としていて、一見滅茶苦茶なようで、しかし目には見えない法則もあるような気がして、やっぱり何がなんだかよくわからなくて。。。でも妙におもしろくて、最初は憤慨していた事もそのうち慣れっこになってしまう、一度踏み入れたら逃れられない不思議な世界。

それでは一主婦の見た北京をご紹介しましょう。

北京はとても乾燥しています。ほとんど雨が降りません。(が、すさまじい雷を伴った泥の雨が降ることも。なんでもあり、です)
春は風。時に猛烈な黄砂も吹き荒れ、砂嵐の洗礼を受けます。とにかくホコリっぽい。
夏は烈暑。40℃以上の日も珍しくありません。乾いた大地に直射日光ギラギラ。中国人はよくサングラスをかけていますが、伊達ではありません。
秋は一転さわやか。まさしく北京秋天!空がこんなに高いのか、と驚かされます。
冬は寒くて大乾燥。静電気がビリビリ。よく喉をやられます。風邪も引きます。鹿児島の温帯湿潤性気候の中で育った身体には、大陸性乾燥気候は大敵。。。でも大丈夫!風邪によく効く漢方薬もあります!それに不思議なもので、住んでいるうちに次第に身体が気候に順応してきます。(ただ鈍感になっただけ?)お風呂上りのスキンケアは欠かせませんが、乾燥も慣れてくれば何とかなるものです。そう、なんでもあり、の次は、なんとかなる!です。

北京の人たちは、暑くても寒くてもとにかく元気です!よく食べ、よく笑い、誰とでも気軽におしゃべりして、とっても楽しそう!外に出て、そんな北京&北京市民をウォッチングするのもなかなか興味深いものです。

外出の際は、北京市内はバス路線が網羅されていますので、使い慣れれば安くて便利です。運賃は15円から。空調付きは少々高めで30円から。降りるバス停を紙に書いて車掌さんに見せれば値段と降りる所を教えてくれます。地下鉄も便利です。運賃は45円均一で渋滞なし。
しかしバスも地下鉄も混んでいる時は要注意!スリが狙っています!そこで最も頻繁に使う乗り物はタクシーということになります。流しのタクシーも多く、基本料金も150円から。日本のバス代感覚で乗れます。(複数で乗って割り勘にするとバス代より安い!)北京でいつもタクシーに乗ってるものだから、日本でもつい子供が勝手に手を上げてタクシーを止めちゃうのよ、という逸話もあるほどタクシーはポピュラーです。

すっかり車社会になったとはいえ、中国人の間ではまだまだ自転車も健在です。しかし日本では自転車党の私も北京では怖くて乗れません。何が怖いかって、無法地帯の如き道路を、しかも右側を走るなんて。。。トテモトテモ。。。
道路は日本とは反対の右側通行で、横断歩道もなんと車優先なのです!横断歩道だからといって安心して渡れません。渡るのは、車が来ないのを自分で確認してから。たとえ横断歩道でも右折車は止まってくれません。(日本だと横断歩道に人がいる時は左折車は必ず止まるでしょう?)

大通りを渡る人
大通りを渡る人

横断歩道は赤信号!
横断歩道は赤信号!

そんな訳なので大通りを渡るのは一大事。近くに中国人がいる時はくっついて一緒に渡ります。くっつき方も重要で、車が来る方に中国人に立ってもらいます。センターラインに来たらさりげなく位置を変え、また車が来る方に中国人を。そうしないと、自分だけ置いてきぼりにされてしまうから。中国人の動きに合わせて一緒に渡るのが安全です。彼らは車間距離を読みながら、実に巧みに渡ります。横断歩道も油断は禁物で、むしろ信号のない所を車が途切れたときに渡る方が安全なくらいなので、人々は自分の都合に合わせて自由に大通りを渡り歩きます。さらには、渋滞している車の間をまるであみだくじを引くようにヒョイヒョイ渡る中国人!なんて器用な!でもまたそれが渋滞の原因にも!

ドライバーによる割り込みも日常茶飯事です。人の迷惑は考えず、譲り合いの精神はどこへいったやら、とにかく行け行け!で進みます。3車線の道路を4台の車が走っていたり、ウインカーなしの神業的車線変更もあり。なんてマナーが悪い、と最初は思いましたが、自分の身は自分で守り、きちんと自己主張している中国人。彼らに言わせれば、信号が赤だからといって、車が通らないのに律儀に待っている日本人の方がおかしいのだそうです。なるほど、所変れば、考え方も変るものです。

中国語も、片言でもしゃべれるとなにかと便利です。タクシーに乗る時や、自由市場で買い物をする時、特に値切り交渉をする時は必要になります。「必要は学習の母」でしたか(?)、「いくら?」「高い!」「負けてよ!」「別なのある?」「いる」「いらない」等の中国語はすぐに覚えます。数字も。
私の友人で買い物達人のSさんの場合、まず1個15元の物を12元に値切ります。そして10個買うから110元にして、とさらに値切りを進めます。15元のを12元にしたんだし、だめだめ120元じゃなきゃだめ、と言われたら、即もう1個足して11個にして、じゃあこれで120元にして!はい、ありがとう。バイバイ!という見事な買いっぷりです。日本人もどうして、なかなかたくましいものです。

店員さんと交渉中(服飾自由市場)
店員さんと交渉中(服飾自由市場)

若い人に人気のアクセサリー売場(服飾自由市場)
若い人に人気のアクセサリー売場(服飾自由市場)

自由市場では、野菜や果物の他に服やアクセサリーも売られていて、しかもデザインも流行のものがあるので、楽しみながら買い物ができます。値段交渉も微妙にして大胆。そしてこの駆け引きがたまらないのです!例えば、セーターが200元で売られているとします。「高いねえ。。。」とまずはため息風に。「いくらなら買う?」の問いに、(え~と、3分の1は70元弱だからこれくらいならいいかな)、と心の中で密かに計算して「そうねえ。。。60元なら。」と返事。お店の人、ちょっと考えて「よし、OK。友達だもん、60元でいいよ!」(えっ、60元でいいの?だったら50元って言うべきだった!)70元で買っても良い、と踏んでいた物をあっさり60元で落札してしまったものだから、一体、このセーターの本当の値段はいくらなのだろうという疑問が残ります。ましてやセーターに「カシミア100%」のタグが付いていたら、???いきなり値札の3分の1に値切る客に、初対面でも「友達」という店側。なにしろなんでもあり、ですから。

200元の物を60元と値切って、「そんな値段じゃとても売れない!」と一蹴されることもあります。そんな時は「じゃあ、いらない」と帰る素振りをすると、「まあ、友達よ、待って!100元ならどう?」と呼び止められます。すかさず「100元?80元にして!」と粘ると「いや85元!」とお店の人。こんな風にいじらしい交渉が続きます。
少しでも安く買いたいこちら側と、少しでも高く売りたいあちら側。安く値切って買ったつもりでも、結局は向こうが儲かっているのでしょうけれど。。。買い物は、北京在住の奥様方の大いなる楽しみのひとつです。ちなみに1元は約15円です。

こんな北京で、何が快適な生活かですって?
怖い思いをして道路を渡ったり、自由市場でボラれてるかもしれないのに。。。?私にとっては、日本では味わうことのできないささやかなことのひとつひとつの積み重ねが、楽しみになっているのだと思います。
中国の自然、中国人の物の考え方、生き方に接するのが、おもしろいのです。地理的に近く、歴史的に大きな影響を日本に及ぼした中国。似て非なる国、中国。中国人から見た日本人は、おとなしく礼儀正しいそうです。が、その礼儀正しさが時にはウサン臭かったり、水臭かったり。価値観の多様性に心が惹かれます。経済発展のおかげで、モノは格段に豊かになり、生活は正しく快適です。

4年前に夫の北京駐在が決まった時、私は東京で仕事を持っていました。気に入っていた、その仕事を辞めて北京へやって来たのは、前回の上海駐在が当時はモノもサービスもなく不便だったけれどとにかく楽しかったこと、今回北京でもきっと新しい出会いや発見があるだろうと期待したからに他なりません。そして予想通り、北京は私を楽しませてくれています。
今回は書きませんでしたが、北京で出会った日本人同士のおつきあいもまた楽しいものです!趣味やボランティアを通して知り合った奥さん同士、日本に一時帰国するたびに連絡を取り合って、会っています。北京では、日本ではお目にかかれないような方々と出会うチャンスがあります。年齢を超え、夫の会社を超え、気の合った仲間同士のおつきあいはこれからも永く続くものと思われます。

北京。大好きな街!ありがとう!

筆者紹介:山下るみ子 氏 北京在住。鹿児島市出身。
ご主人は国分市出身で北京山九北海物流有限公司総経理 山下政博 氏です。

鹿児島と上海の交流発展によせて

鹿児島と上海の交流発展によせて

(財)日中経済協会上海事務所  所長 﨑岡 洋右

対岸から見る景色も時代によって異なるイメージを与えられるものとそうでないものがある。その対岸というのは外灘だが、ここはオールド上海を今も強く感じさせてくれる所だ。日本の懐メロのいくつかには「上海ブルース」をはじめ、いくつかの懐かしの上海を歌った名曲があり、私の年齢以上の人達には、これらの名曲から上海のなんとなくロマンチックなそしてなんとなく怪しいまでの魅惑を感じるイメージを持っておられるだろう。”夢の四馬路”、”ガーデンブリッヂ”等という懐メロの中にでてくる言葉はいやでも感じさせるオールド上海のイメージそのままである。
このガーデンブリッヂ(現在は外白渡橋という)は外灘の端にあり、これを渡ると旧日本共同租界(現在は虹口区、ホンキューと言ったほうが年配者には通りがよいと思うが)に入るのだが、この外灘から黄浦江を挾んだむこう側である浦東新区を見ると、そこには新しい上海を象徴するような風景に一変し,大発展の上海を誇示するような摩天楼の群れが見られる。タイムスリップして1930年代に帰った上海を感じる外灘から、対岸は一挙に2002年の上海がそこにある。この感じが私はとても好きなのであり、発展の代名詞となっている上海、活気の坩堝の中にいる状況はそれはそれで良いのだが、なんとなく心に物足りなさを感じる。
そこで思い出すのは、8年以上も前の鹿児島勤務時代に毎朝毎晩オフィスから見たあの雄大な桜島の景色である。そこには外灘や浦東のような華やかさはないが、見るものの心に自然の素晴らしさと、人生とは何かを深く感じさせる何か尊いものを感じさせてくれた。上海生活も通算4年半になり、ここの生活も大いにエンジョイしているのだが、今でも忘れられない鹿児島の懐かしさ、そして桃源郷のような温泉の豊富な鹿児島の良さを与えてくれた鹿児島の皆さんに今も感謝している。
1994年7月に長いソウル勤務から直行して鹿児島に3年、そして又上海勤務になり、鹿児島を挾んで二つの隣国を体験した。当時の上海は中進国韓国から見るとかなり遅れた発展途上地域という感であったが、今やその面影は少なくなりつつある。今や上海は世界の注目を集め、日本企業が熱い目差しを注いでいるホットな地域である。この地域が鹿児島からわずか1時間20~30分の距離の所にある。考えようによっては鹿児島は宝の地域を抱えているようなものである。香港、シンガポールとアジアで重要な発展地域との長い交流実績のある鹿児島は期を逃すことなく、有利な経済的地理条件を上手な戦略に取り入れ地域経済の発展に連げてほしいと期待しているところである。鹿児島大好き人間、上海大好き人間の私としては両地域が手を取り合ってアジアの発展に寄与してもらえればなによりも喜しい事であり、鹿児島の皆さんのために私に何かできることがあれば及ばずながら力になりたいと考えている。

(財)日中経済協会上海事務所連絡先:
中華人民共和国上海市延安西路2201号 上海国際貿易中心大厦2001号
電話:86-21-62701647 FAX:86-21-62752211
(筆者は1994年7月~1997年7月までジェトロ鹿児島貿易情報センター所長として勤務)

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