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雑貨・商社

㈱迫田

会員者情報

企業名 株式会社迫田
所在地 鹿児島市与次郎一丁目9-17
電話 099-255-9500
名前 代表取締役社長 迫田 博信 氏

インタビュー(貿易ニュース鹿児島2004,12月号掲載)

代表取締役社長 迫田 博信 氏

“もう、「家具屋」とは呼ばせない。” 今年で創業60年を迎え、10月14日に鹿児島市与次郎の本店をリニューアルオープンさせた迫田のキャッチフレーズである。同社は、これまでも鹿児島市南栄に「アウトレットX」、熊本県宇土市に「ファーニチャーモール・メガ」を創設するなど、家具を取り巻く環境変化を常に先取りしながら発展してきた。

 迫田の創業は昭和19年。現社長の父親の迫田繁治氏が都城市で個人経営の迫田木機製作所を創立し、21年に鹿児島市東千石町に移転、迫田タンス店として家具販売を開始。戦争末期、数度の空襲により市街地の多くを焼失した鹿児島市では、戦後、住宅建設が盛んで家具の需要も極めて高かった。当時の家具屋は、製造から販売まで一貫して行っており、最新型の木工工作機械を組み込んだ迫田の製造ラインは当時としてはめずらしく、全国から多くの視察者が訪れたという。

 昭和23年に株式会社組織に改組し、38年に社名を株式会社迫田に変更。この頃、伊集院工場では、フランスベッドが販売する二段ベッドの製造を一手に引き受けていた。43年からは応接セットを製造し、全国に卸すようになった。50年代になると産地間競争の激化に加え、海外からの製品輸入も増加したことから、国内の家具産地が次々と消滅した。鹿児島の場合、革やウレタンなどの原材料調達の面で他産地に比べ厳しい立地条件にあったことから、迫田は55年に製造部門から完全に撤退、販売専門となった。

 急速な車社会が進展する中で、迫田は天文館の本店を閉鎖し、昭和59年、鹿児島市与次郎に郊外型大型家具専門店をオープンさせた。創業39年目にして社運をかけた決断であったが、広い駐車場とゆったりしたフロアでの豊富な品揃えなどが消費者ニーズにマッチして、業績は活性化した。アウトレットXの誕生は平成7年。アウトレットとは、主にメーカーの格外品を安値で販売する小売業態で、当時の日本、特に家具の分野ではほとんど例がなかったが、バブルがはじけ、実質的な価値を尊重し始めた消費者の支持を得ることとなった。

 さらに平成10年2月、熊本県のほぼ中央に位置し交通の利便性に恵まれた宇土市に「ファーニチャーモール・メガ」をオープンさせた。8,000坪という広大な敷地に400台収容の駐車場を備え、売り場面積が3,000坪という日本最大級の家具専門店で、店内は複合商業施設のショッピングモールを思わせるようなゆとりの空間となっている。戦後最悪といわれた不況下での出店を不安視する声もあったが、オープン初日の来店者数が3万人を超えるなど駐車場は連日満車状態が続いたという。

 そして、この10月の与次郎本店のリニューアルオープンである。新しい売場は、1階が「インテリア雑貨・ファブリック類・照明」、2階が「リビング・ダイニング」、3階が「寝具、書斎、ホームオフィス」などとなっている。量販店とはひと味異なる薄型テレビや照明器具などの家電製品、デザイン性に優れた様々な小物や植物なども揃えて各部屋・空間毎にコーディネートされて展示され、また、音響メーカーのBOSEとの提携による試聴体験可能な音響ルームも備えている。顧客の立場に立ったとき、わかりやすくて楽しめる工夫が随所に演出され、冒頭のキャッチフレーズの意味が実感できる空間に生まれ変わった。

 現社長の博信氏は、大学卒業後フランスベッドに入社、昭和45年、父親の死去により25歳で副社長として迫田の経営を引き継ぎ、59年に社長に就任した。社長によれば、迫田で扱う商品の仕入先はだんだん海外にシフトしてきており、最近は中国・ヨーロッパ(デンマーク)が中心である。特に中国では近年、設備が近代化され、品質も急速に向上していることから、今後中国との取引は一層拡大していくと見込んでいる。もちろん日本でしか出来ない品物もあるため,取り扱う商品によって取引メーカーのすみ分けができつつあるという。

 最後に、今回の本店リニューアルについてお聞きした。これまで家具販売は住宅建設との連動性が極めて高かったが、少子・高齢化が進展し、住宅着工件数が確実に減少していく中で企業として生き残っていくためには、住宅建設とは必ずしも連動しない経営戦略が求められている。迫田が目指しているのは、家具販売中心で従来型の「業種店」から脱皮し、家電や小物類も充実させてライフスタイルを総合的に提案する「業態店」に転換することで、本店のリニューアルはその第一歩である。業態店への転換に必要なもう一つの柱が人材育成であり、顧客に満足していただけるサービスを提供できるよう、社員一人ひとりが感性を磨き、確かな商品知識を身につけるための社員教育の充実に全力で取り組んでいる。   
    
 (貿易ニュース鹿児島2004.12月号掲載)

弓場貿易㈱

会員者情報

企業名 弓場貿易株式会社
所在地 鹿児島市卸本町8-20
電話 099-268-9711
名前 代表取締役 弓場 秋信 氏

インタビュー(貿易ニュース鹿児島2006,5月号掲載)

代表取締役 弓場 秋信 氏

県貿易業界の第一人者で、本誌の”弓場社長のワンポイント アドバイス”や地元紙にもよく寄稿されている弓場社長を訪ねた。
このコーナーで紹介するのも今更という感がしないでもない。本人も照れながら海外貿易を始めたいきさつなどを懐かしそうに語ってくれた。

 若い頃から海を見ては、海外への憧れを募らせていた青年は、昭和42年19歳の時、台湾を一人旅する。初めての海外体験である。この時、現地でいろいろな人に親切にしてもらった感激が海外との交流に拍車をかける。

 24歳の時に溶接関係で青年海外協力隊員としてマレーシアに赴任する。厳しい活動の合間も、時間を見つけては東南アジア諸国を旅した。
 任期を終えるとすぐに帰国しなければならなかったが、公用旅券の変更手続をしてヨーロッパに向かう。ローマ行きの航空券を買ったところモスクワ経由だったため、熱帯のマレーシアから半袖しか持たない状態で、極寒のモスクワに3日ほど滞在する羽目になったとか。本人もこの頃はまだ旅慣れていないようである。それでも警備の厳重さや町並みの美しさなどが印象に残り、見聞を広めることができたとか。
 それから本来の目的地であるローマを始めヨーロッパを1ヶ月ほど回り、さらにイギリスで4ヶ月間英語の勉強をして帰国した。

 帰国後は、貿易や英語とは全く関係のない大阪の袋物の製造工場で6年間働き、鹿児島に帰ってくる。
 鹿児島に帰ってきて何をしようかと迷っていたとき、やはり好きな海外関係の仕事をしようと貿易を始める。幸いに大阪時代に蓄えた資金もあった。
始めると言ってもノウハウがあるわけでもなく、アドバイザーがいるわけでもない。 本屋に行って「貿易実務」という本を買い、アパートの1室で、独学で本をひもときながら、妻との2人3脚のスタートである。

 当時はメールやファックスのような便利な物もなく、また人脈、ネットワークもないため、ダイレクトリーやジェトロや県の引き合い速報を見ながら、ただひたすら手紙を書き続けた。100通出しても返事が1通来るかこないかといった状態だった。やっと返事が来たその1通も「手紙を見たが興味はない。」という断りの内容だったとか。それでも、その時は返事がきたことだけでも嬉しかったという。

 貿易を始めて1年目は、韓国へのしょうがの輸出の1件しかなかったが、ダメもとで3年ぐらいは夢を見ようと思っていたため、特にあせりはなかったという。2年目にな

って軽石やエビの配合飼料、孟宗竹の花器などを輸出するようになり、3年目にして取扱い品数も増え、なんとか食べていけるようになった。

以降、銀行や、ジェトロ、県などの協力も得ながら、業務は順調に拡大していったが、もちろん、多くの失敗もある。
インドネシアから年間4億くらい輸入していたかつお節の原料が内乱で一瞬にして消えたこともある。1985年のプラザ合意では、扱っていた商品の8割がダメになり、かなりの痛手を受けた。このとき為替は動く物だと言うことをしみじみ感じ、輸入にも力を入れるようになる。
弓場貿易では現在金額レベルでは輸入が多い。貿易は為替、相手国の政治状況、治安などに左右され、リスクが多い商売だと言うことは身をもって感じている。そのため最近では国内業務にも目を向け、国内の卸業をはじめることでリスク管理を行っている。

手前みそになるが、弓場社長は貿易業で成功した理由の一つに、県などが主催する貿易商談会への参加を揚げてくれる。商談会に参加するメリットは、紹介される企業がある程度信頼ができること、参加者の間で異業種交流ができるなどで、効率的に、安心して取引ができ、人脈も広がっていくという。昭和57年の第1回目の県の主催する商談会に参加して以来、入院していて行けなかった時を除いて全て参加している。

 ボーダレス化が進む中で、国内だけでは生きられない地域経済社会になってきた。今後、海外との交流、貿易はますます盛んになっていくだろう。
これから貿易を始める人へのアドバイスをお願いした。
 「貿易をはじめようとする人は、広い視点が欲しい。国が違えば価値観や考え方も違う。最終的には人対人なのであり、異文化理解ができることが大事である。取引を始めるときに相手の国だけを見て判断するのは危険で、信頼できるビジネスパートナーを見つけることも大事である。いろんな意味で目利きが大切である。」

中国との関係については、
 「今は中国抜きで貿易は考えられなくなっているが、「China+One」という考え方で中国を補完できる国を探し、取引を始める事も大切だ。しばらくは貿易相手国として最大のパートナーだと思うが、中国が何を欲しがっているのか、何を考えているのか、見極めなければならない。また、中国と取引する場合は、集金機能をしっかりしておかなければならない。マーケットの大きさに惑わされがちだが、現実をしっかり見て対応することが大切だ。小さくてもオンリーワンを狙うこと。幸いに、鹿児島には日本一がたくさんある。」

 弓場貿易では現在、通関士、外大卒、青年海外協力隊OBといったさまざまな経歴を持つ11名が働いている。弓場社長は社員の持っている能力を最大限に伸ばせるような会社でありたいと願っている。今でも青年海外協力隊員の面倒を見、途上国の発展を願い、全ての国の人が豊かになることを祈っている弓場社長にとって、貿易業はまさに天職なのだろう。
<「弓場社長のワンポイント アドバイス」は、当協会のホームページに掲載されています>

(貿易ニュース鹿児島2006.5月号掲載)

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